“いい家”が欲しいあなた!確かな健康住宅をお探しのあなたへ!

兵庫県丹波市柏原町 有限会社 住まいの権
”いい家”とは、人を『救い・護り・育てる』ものです。
それには
『耐久性・健康・住み心地』が揃ったものでなければなりません。
私は自ら実践し良いと思うもの以外、皆さんにオススメしません。
ご家族の幸せを願い確かな性能・品質をお届けしています。


   

社長

 

住環境アドバイザー 上郡清政の  

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    「気づき・ひらめき・発見のブログ毎日更新されるのは、実生活10年目の証」

   
どこにも無かった、誰も知らなかった住み心地一番の家


  

PROFILE                


      上郡清政の

      プライベート・プロフィールはこちら

はじめまして、上郡清政です。

こちらに記載してある私のプロフィールは、かなり長くなっています。興味ある方向けです。

自分では、あっという間のことでしたが、結構いろんなことがあったんだな〜と当時を振り返えることができました。興味がある人は、風呂上りのゆったり
した時にお読みくださいまだ途中です。

時間をみて継ぎ足していきます。

                      私のふるさと

               私の生まれたところ。山の峰に見えるのは「篠ヶ峰」のテレビ中継所のアンテナです。



 誕生は・・・。

郡清政は1950年6月25日兵庫県で生まれました。

兵庫県丹波市は新しい市名で、以前は兵庫県氷上郡で、私は旧兵庫県氷上郡氷上町三原に生まれました。

住まいの権になり住宅産業に参入する時、人様にススメルなら自分が知らないでは話にならないと、モデルハウスを建て、家族を連れて現住所に移り住んだのです。

とんでもない山中かといえばそうでもなく、片田舎の町から少し奥に入り、山々に囲まれた田舎で育ちました。
砂利地で水を貯えることができない土壌で、またそれに値するだけの用水地がなかったところです。
二宮尊徳の教えを受けた地元のある有志が、先頭に立ち溜池をこしらえ、地域活性化のため山々には、檜・杉などの建材になる木々を植林していったのです。

そんな何もない田舎ですので、私は学校から帰れば必ず友達の家へ行き、鎌を持って山へ行き、刀をつくりチャンパラごっこでした。テレビの「隠密剣士」の影響を受けていたのでしょうね。それとか陣地取り、戦争ごっこでしょうか。山の中に檜の葉っぱを使って小屋をつくり、どういうわけか戦争ごっこでしたね。
またある時は、月光仮面のマネをして家にある風呂敷を持ち出していたものです。テレビといえば、少年探偵団・アトム・鉄人28号・そんな記憶がありますね。

春には、学校から帰れば新聞紙に塩を入れて、友達と“いたどり”取りでした。競争のように取りに行ったものです。塩をつけてよく食べました。今思い出しても酸っぱいのによく食べたものです。硬い“いたどり”は鎌で巧みに水車をつくったりして遊んでいました。

今の子供のように勉強などしたことはありませんでした。高学年になった頃、村の公民館でそろばん塾があり、週に一度か二度だったか忘れましたが通ったものです。
それが今の塾の始まりだったようです。

夏は小さな川で、ご飯をエサに小魚を釣っていました。フナや、ドジョウなどは至るところにいました。もちろん蛍もたくさんいましたよ。蚊帳の中に放し青白く光る蛍を眺めていました。蚊帳といえば、蝉があります。幼虫を取ってきて脱皮するのを見るのが楽しみでした。その途中一度でも羽などに触れば変形し蝉は飛びたてなくなります。そんな記憶がありますね。

秋、田んぼに積み上げられた藁束の上で、焼き芋をほお張りながら青い空を見るのが好きでした。そして、今でもですがその藁の匂いが好きです。なぜか落ち着くんですね。サツマイモならいいですけれど、ないものでよくジャガイモを食べていましたね。塩をつけて。またおやつといえば、ソラマメの炒ったものもありました。今考えれば、よくそんな硬い物を食べていたものと思います。

うすうす覚えているのは、農耕馬が引く、木材を運搬するための馬車がありました。寒くなり始めた頃には、その木材を積む馬車の荷台の上で、おじさんが四角い缶を利用して焚き火をしていました。そっとその馬車の後ろに乗るのが、おじさんは怒りましたがそれが何とも楽しかったのです。馬は歩きながら道の上に“うんち”していました。牛の“うんち”よりは、まだ良かったです。牛の“うんち”は踏みつけたら最悪でしたからね。また、こんなことありました。
木材を多く積んだ馬車はとても重いのでしょう、叔父さんは引けない馬の尻を思いっきり強く叩くのです。馬がかわいそうで、そんなにしなくてもいいと子供心に思いましたね。エサが藁ばかりなのに・・・

その頃の冬は今以上に雪がよく降っていました。雪の降った日には、竹藪から太い青竹を切ってきて二つに割り、先を少し上に曲げてスキーをつくって、それを針金で長靴を縛り坂道を滑っていました。わずかな距離ですが楽しいのです。日が暮れるまで遊んでいましたね。雪が降るのが嬉しかった頃です。家に帰れば、ベタベタに濡れた長靴とズボン、そして靴下。おふくろにはよく叱られていましたね。それでもあくる朝には、長靴は乾いていました。

また小学校の通学路沿いには竹薮があり、人が来るのを待って、人が来ると一斉に竹を蹴って雪を振り落とすのです。2〜3人でよくやりました。頭の上から、どさっと雪が落ちてきます。当然どの子も怒るわけですが、中にはしゃがみこんで泣き出す女の子もいました。

とても寒い日には凍りついた湿田に行き、張った氷を利用してスケート遊びをしましたね。でも、調子に乗り過ぎて薄くなった湿田に飛び込み長靴のまま動けなくなったこともありましたね。

長い1本道

小学校から我が家に続くこの1本道、遠く感じました。

 2010.4.追加

私が通っていた小学校の校舎は木造づくりで、暖房器具は石炭使用のだるまストーブでした。ストーブ当番に当たると、前の日に小さな薪の束をつくりました。石炭を燃やす為の下火用です。

小学校3年生の時、初めて給食が始まりました。パンがとても珍しかった時代です。また脱脂粉乳でできたミルクも、当時ハイカラなものでした。

6年生の修学旅行は三重県の伊勢でした。夫婦岩の日の出が今も強く記憶に残っています。そしてお金を初めて使った喜びも、今でもなぜか覚えています。

中学校1年生までは、氷上町の中学校が一つに統合する前で、1年間だけ木造の古い校舎で学びました。その頃の記憶でしょうか、弁当をストーブで温めるのが楽しみだったのです。皆が先を争うように弁当を温めたものです。ふんわりと立ち上る湯気と塩昆布の匂いがしていたことを覚えています。

中学3年生の秋、とんでもない大きな台風に我が家は壊されました。被害は周りの4〜5軒にまで及びました。その日も普段と同じように学校に行ったのですが、台風が来るということで早く返されました。
帰りの道はすでに台風による水で自転車が乗れない状態でした。友達と連なって歩いて帰りました。大人の人が多く道端にいました。

その日は確かテスト前だったと思います。普段勉強しない私でしたが、どういう訳かその日は勉強していました。突然、風も強くなり停電しました。それでもあまり気にならずローソクを点け勉強していました。

益々風は強くなり、家が、ガタガタとがたつくようになりました。勉強どころではなくなってきました。ローソクの火は消しました。木で出来た雨戸が障子と共に、家の中に押し込まれるほど風は強くなってきました。

その戸を外されてはかなわんと必死に身体を使って押し戻しましたが、”どばっ、ガタン”と、とても強い風が吹き、私は押し戻され雨戸と共に部屋の奥に吹き飛ばされました。その時一瞬家が浮き上がったように思います。私はもうダメだと思い、キツイ風の中、外へ転ぶように飛び出しました。その一瞬家は壊れました。

外はとても立っていられるような風ではありません。近所の納屋に積まれているはずの、人の手で丸抱えするほどの大きさの藁束が木の葉のように私の頭の上をいくつも跳び越していきました。メリメリと音をたて屋根の波トタンがめくれ、まるでゴミくずのように飛び立っていました。

その時、家の傍にある南天畑から「こっち!こっち!」と言う声がしました。お隣の叔父さんと一級下の道雄君の叫び声だったのです。すかさず私もその南天畑に行き身を潜めていました。

   内尾神社

昔は村の中心にあったとされる内尾神社

2010.4.追加

台風で我が家が壊れた後、そこには仮設の炊事場と、町から試供されたプレハブ住宅が住まいとなりました。

新しい家ができるまでの期間、寒い冬場もそこで暮らしました。私は中学3年生だったので、そのプレハブ住宅で受験勉強をしたものです。

あまり勉強は好きではありませんでしたが、学校で台風被害調査が行われた時、先生がまず「家が壊れた者はいるか?」と尋ねられた時、私はそっと手を挙げたのです。そうすると多くの笑い声がしました。そして先生が、すかさず「笑うな!笑う事ではないだろう!」と生徒を戒めました。

それからの私は、必死で勉強をするようになりました。自分でもビックリするような順位まで上りました。

その時の先生は、芦田有行という数学の先生でした。「上郡、この成績はなんだ!」とよく叱ってくれました。その度、成績が上がりました。

この先生のことは今でも忘れていませんし、私に何かの自信も付けてくれました。恩人です。

そのプレハブ住宅はとても寒かったです。ストーブを焚いても足元は冷たいし、窓ガラスはベタベタに濡れています。ある日私は新聞紙を壁一面に貼り付けました。少しでも暖かくなるだろうと思ったからです。

今の家づくりに51歳から何の抵抗もなく入れたのは、この裏付けがあったからでしょうか。

つまり何の理屈も工法も知らないで、ただ今から思えば、その行為は断熱性能を持たせることに繋がっていたのですね。

この辺りに、今日の家づくりの底辺があったのだろうと思います。

だって何の知識も、大工の経験も、住宅産業界にいた経験も無い私が、家づくりに飛び込んだのですから・・・。無茶なことができたのは、やはりここに何かがあったのですね。

そのような素人の私が住宅産業界に飛び込んだのですから、とんでもない苦労があります。でも心の底には、この家づくりが一番、必ず日の目を見て、人様のお役に立てると、どんなに辛い状況であっても信じられるものがあります。

やがて小さな家が完成しました。けれど今度は父が山で怪我をしました。私は高校1年生でしたが親戚に預けられました。そして、短い期間でしたが片道一時間以上の通学をしました。高校3年間は育英資金を受けて行きました。

兄も夜間高校を出ました。姉は住み込みで看護婦の資格を取りました。私だけが高校ヘ行かせてもらったのです。

高校を卒業する時私は、就職先を老舗の呉服屋を選びました。テレビで見た、戦後の闇市で何の術も無い人が、右から左に商品を動かす術を身に付け上り詰めていくドラマを見たのです。

これなら私にも、時間が掛かるだろうが、いつかきっとその術は身に付けられると思ったのです。そして「食っていける」と、そう思ったのです。

誰もが少しでも大きな会社、安定した就職先を探す中で私一人が、このような道に入ったのです。

その勤めは、朝6時から夜8時まで続きました。葺き掃除から残飯処置までしてきました。変わったところでは、葬儀の手伝いまでさせられました。見たことが無い死人を抱えたこともありました。

使い古したお茶ッ葉は乾燥して風呂焚きに使い、その風呂の残り湯は翌朝の葺き掃除に使かわされました。

その当時はイヤなこともありましたが、いいことも教えていただきました。ただ給料の低さには参りました。


2010.5.追加                

                                         
その老舗である呉服屋は、店の裏でお茶の問屋もされていました。呉服と兼用でした。私は掛け持ちでよく働きました。
でも一つだけイヤな事がありました。この地域の最大の祭りが寒い2月にあります。その祭りの2日間は店番をさせられ、店頭にいなければいけませんでした。

身体はラクなのですが、知り合いなどが店の前を通りかかる時、私はそっと商品の影に隠れていました。丁稚奉公のような姿が、自分で選んだ道とはいえなんだか恥ずかしかったのです。中には彼女を連れて歩いている友人を見かけました。正直うらやましいな〜と思ったものです。

                      柏原八幡宮

                                厄神祭で賑わう柏原八幡宮 

そんな生活のある日、成人式の招待がありました。出席したその場で、役場職員の臼井さんから「成人式の感想文を書いてください」と原稿用紙を渡させました。
何の意味もわからず書きました。その後、その原稿がきっかけで兵庫県が開催する第一回目の「青年の船」に乗ることになったのです。どうして私が選ばれたのかよく分かりません。

初めての海外旅行で地元の氷上町からは4人が参加しました。勿論20歳の私は一番年下でした。台湾・香港・マニラ・シンガポールを26日間かけてイギリスの客船で回りました。

その間大変多くのことを学びましたが、私にはどうしても納得いかないこと、不に落ちないことがあったのです。何か上辺だけの研修のような気がしてならなかったのです。私だけかもしれませんが、正体を隠したままの繕った姿であったように思います。
私は何か真実みたいなものがつかみたく、一人でヨーロッパを回ることを考えました。

そして3年後その希望は、店の理解、兄、姉、義理の兄の協力で実現しました。年の瀬を迎えた12月29日一人で着替えとユースホステルの住所録だけが入ったリックを背負い丹波市柏原駅を後にしました。23歳と半年の時です。

当時、一番割安のソ連の飛行機を利用したのです。機内ではロシヤなまりの英語が飛び交っていました。英語の分からない私には何を言っているのか、皆目分かりませんでした。離陸してどのぐらい時間が経ったでしょうか。

機内の雰囲気が緊張感に包まれたのです。その分かりにくい英語から「チェンジ」が分かりました。そしてその後、その飛行機はハバロスクに急降下したのです。暗くて寒い機内。恐ろしい経験を初っ端から体験することになりました。

飛行機を変え、再びロシアを目指して飛び立ちました。けれど困ったことが起きました。到着が遅くなったので、このロシアの飛行場のロビーで翌日の飛行機を待つことになったのです。

確か現地時間23時を過ぎれば当飛行機会社が宿泊先を用意してくれることになっていたと思います。けれど待てど暮らせどホテルの用意はありませんでした。共産国ではその制度がないことを同飛行機に乗っていた日本人に後から教わりました。

しかたがないので私を入れた3人の日本の若者は、朝まで寒さを凌ぐため酒を飲んでいました。私と同じような目的の青年がいたのです。

ロシアの飛行場とはモスクワです。軍と兼用になっているのか、私にはよく分からなかったですが、ロビーの入り口には2mはありそうな、でっかい軍人でしょうか、それとも警察でしょうか、威圧感のある銃を持った2人が立っていました。私はその間を恐る恐る通りました。

ロビーはとんでもなく広いものでした。でも、何といってもビックリするやら困ったのはトイレでした。小便用便器の位置がやたら高いのです。私が用を足すのは大変でした。また大便の方もとても大きく、油断をするとドブンと便器に落ちそうな感じでした。トイレットペーパーは薄茶色で硬かったです。

翌朝、朝食に誘われました。またしても椅子の高さが気になりました。けれど直ぐにテーブルの上にある黒パンに目が行きました。見た目はもう一つですが、食べてみると噂通りとてもうまかったです。大きく切られたチーズ、これもうまかったです。ただスープはうまかったのですが、少し脂ぎっていて私にはもう一つでした。

朝食後、飛行機はパリに向け飛び立ちました。どういうわけかその時の記憶がないのです。というのも、ある日本人の青年が、そのでっかい軍人か警察か分からない人に吊り上げるように両脇を抱えられ連れて行かれたのです。なんでも、撮ってはいけない場所の写真を撮ったそうです。その緊張感から私の記憶が消えたのかもしれません。

その後このような緊張感はもう一度ありました。フランスからスペインに移る国境の街ポートブーで列車の軌道幅が違うので乗り換えが必要だったのです。その乗り換えの時、多分朝の5時頃のことだったと思います。まだ眠気でぼうーとしている私の前には、銃を構えた、これは軍人でしたが、ずらっと並んでいました。フランコ首相が殺された直後だったのです。私は寒さと緊張感でいっぺんに眠気は飛んでしまいました。引き金一つで、いともカンタンに人が殺せるのですから、やはり銃は怖いです。

そのうちやっとパリに着きました。午後3時ごろだったと思います。またここで一騒ぎです。飛行機からは意外と早く降りたのですが、入国手続きでとんでもない手間を取ってしまったのです。まず、その日の滞在場所が書けなかったのです。ホテルもペンションも予約していなかったからです。

そこで思い出したのは、パリのユースホステルです。早速リックから取り出したユースホステルの住所録を写し書き、無事入国でした。気が付けば、私は一番最後になっていました。係官は私を見てニャッとしていました。私は少し焦りましたが、まあ到着したんだからゆっくりいけばいいと自分を落ち着かせ新しい所に入った喜びに慕っていました。

まずはパリに到着した事を実家に電話しなければいけないと国際電話のできる所を探しました。着払いで日本の電話番号を書いて電話を申し込みました。しばらくの間、呼び出してくれるのを待ちました。

そうすると「ミスターカミゴリ、ズー」という声が私の方に向いてありました。ズーとは2かと、2番の電話ボックスに行きました。ズーと言う聞きなれない音の後に、「もしもし?上郡ですが・・・」という聞き慣れた兄の声がしました。無事到着を告げ、ユースホステルに行くことを伝えました。紅白歌合戦が終わった後のようで、兄からは紅組が勝った事を教えてもらいました。

その後、大切な移動の列車の時刻表を買いにトーマスクックに行きました。その時刻表はその後の私の大切な道具の一つになりました。夜行に乗れば一泊の宿賃が浮くからです。

さて、今夜の宿はユースホステルを決めたものの、それがどこにあるやらさっぱり検討がつきません。勇気を出して近くにいた人の良さそうな若い人に住所を見せて尋ねてみました。なんとその人はスェィーデンの学生さんでした。親切にユースホステルの玄関前まで連れていってくれました。足が長くやはり格好いいですね。歩幅が大きくついて行くのが大変でした。

早速手続きをして自分の部屋に入りました。安いだけに充分なことはありませんでしたが、パリ初日の宿になりました。そうすると急に腹が減ってきて夕食を食べに出ることにしました。荷物は日本でしたら部屋で充分ですが、心配なのでその日はリックを担いで出かけることにしました。

肉が食べたいと思いました。でもどこも高そうで私に合うレストランはありません。少し雰囲気に疑問がありましたが、赤いネオンのある如何にも安そうな店に入りました。なんとモロッコのレストランでした。

メニューを見ても合点がいきません。とかくミートととあるメニューを指さし頼みました。出てくるまで結構時間がかかりました。店内は一面赤色です。異様な雰囲気です。そして出て来た料理にもまたビックリです。

普通の赤い肉ではありません。紫色の肉です。それも大きいのです。その料理が出てくるのも尋常ではありません。なんかひたひたの服装で音楽に合わせて踊りながら出て来たのです。

戸惑いながらも早速その紫色の肉を頬張りました。肉は肉ですが、ナイフで切ったとき紫色の肉汁です。味と見た目とに、自分がどうなっているのか分からないような状態でした。

それでも結局すべて食べてユースホステルに帰りました。シャワーを浴びてその日はぐっすり休みました。

23歳。パリ初日の出来事でした。

2010.9.追加

パリ到着後、ひょんなことからラクダの肉を食べることになり、この先どうなるかと思いつつも気持ちは高ぶっていました。

翌日市内に出ると、街行く人が、まるでファッション雑誌のようでした。真っ赤な上下の服に粋な帽子、そしてベビカーまでもがそのまま雑誌から抜け出したような、日本では見られない親子の風景に「さすが、パリだな!」と思いました。

今度は自分に目をやれば、センスの無いコートに、リックサック姿。冴えない場違いの自分の姿がウインドーガラスに映っていました。
それでも23歳の私の心は踊っていました。誰一人知った人がいないパリで浮きだっていました。楽しいのです。なんら通じる言葉一つしゃべれないのに!

ルーブル美術館・ノートルダム寺院・エッフェル塔など地図片手に、一日中歩き回っていました。何も無い私ですが一つだけ自慢することがあります。身体の中に磁石が入っているのか、方向だけはどこへ行っても大丈夫なのです。

市内には、いろんな人種の人たちがいました。20歳の時、兵庫県の洋上大学で東南アジアを回ったときとは、また違った雰囲気でした。

そしてそのパリで一番驚いたのは、やはり歴史と文化が至る所にあるということでした。とても長い時間を体験しました。

そうしたとき、ふと道路脇に止めてあった自動車を見れば、バンパーはいずれもべこべこです。まるで自動車は資産でなく、足であるような取り扱いでした。

駐車している車を見ると、どうみても止めてある車の車間距離がありません。どうするのかと見ていると、綺麗な格好をした、また若いご婦人は車に乗るやいなや、平気な顔をして前後の車にドカンと自分の車をぶっつけ、出られるスペースをつくり出て行くのです。

これにはビックリです。当時、日本で給料の二ヶ月分で買ったスバルのてんとう虫は、それはそれは私の大切な財産でした。

そうこうしながらパリを発つ日が来ました。オペラ座の近くからドイツに向けて旅立ちました。

2010.10.追加    

ドイツ編

ドイツは今でも忘れられない強力な印象があります。まず、街がきれいでした。フランスのようなベコベコにへっこんだ車は見かけませんでした。

街中が整っているな、勤勉という印象もありました。

私はその後、ドイツから、スイス、イタリア、スペインへと向かうわけですが、当時、各国のカラーが強くありました。お金を両替したときにそう思いました。

でも、今ではどうでしょうか?EUという統一国家になり、各国のカラーは存在しているのでしょうか?

ドイツでは、博物館、図書館、駅の構内、市電車など、今振り返っても几帳面さが伝わってきます。

ペンション・ユースホステルでも同じことが言えて、一番安心できました。

「あっ!」すみません。お客様が来られましたので、続きはその内・・・・・。



2011.2.追加    


23歳の時、初めて行ったヨーロッパは、その後、パリを後にしてドイツへと向かいました。

その車中で、車掌さんがやってきました。

なにかしゃべっています。

「しゃべっています。」という言い方は失礼ですね。

でも、そんな感じでだったんですよ!言葉のできない私にとっては・・・。

検札だったのです。私は期間限定で乗り放題のユーレスパスを持っていたのです。

その使用初日はいつかと聞いていたようです。

その呼びかけに、指を3本立てるだけの私でした。

今から考えてもみても、とてもいい加減な旅行でしたね。ある種危険な旅行でもありましたね。

でもその時は、そんなことを少しも考えていなかったですよ。なんせ、見るもの、聞くものすべてが楽しいばかりでしたから。


無茶なことだったかもしれません。

その後、ミューヘンでは風邪をひいてしまって2日間寝てしまい、ジュースと、鳥の丸焼きと、りんごで過ごしました。

スイス、チューリッヒでは、駅に降り立ったとき、どこからか聴こえてきたヨーデルの歌声。

馬に乗った目の青いマント姿の綺麗な娘さん。

言葉が通じないのに子供たちとサッカーをした想い出。

そのスイスからイタリアへ抜ける道中の、アルプス越えの神々しい山々。

ミラノの粋な姿のお姉さん。

フローレンスのミケッジャロン広場から見た夕焼け。

ドーモ越しに見える歴史を刻んだ街並。

ローマまで2ドルで乗っけてくれたアメリカ人青年。


もっと、もっと印象深い想い出があります。

切りがないのでこれで終わりにしますが、最後にスペインのトレドで模写をしていた青年を取り上げてます。

どういうわけか、模写をしている日本青年と私は仲良くなりました。

「私の家に来ませんか?とっておきのごちそうをしますよ!」

ということになったのです。

その青年の部屋は、土でできた洞窟みたいなところでした。6畳ぐらいの広さで、硬いベットがぽつんとあるだけでした。

もちろん、床は土間です。

そこで、なんとキヤンプ用のコンロでインスタントラーメンをつくってくれたのです。

その人にとっては、そりゃ、貴重な、貴重なごちそうだったに違いありません。

ところが大変です、その大事なごちそうが、もうすぐ食べられるって間際でゴロ〜ンとひっくり返ってしまったのです。

その青年と私は、顔面蒼白です。

とんでもないことが起きてしまったのです。

でもあきらめません。目と目を合わせた二人は、そのラーメンを一本ずつ拾い上げました。

そして、土間に吸われたスープはありません。それでも二人は水で洗ったのびたラーメンを笑顔で大事そうに食べました。

そこを去るとき、私はその硬いベットの枕元に500円硬貨をそっと忍ばせました。(その当時500円で一食付きで泊まれました。)

その人は、今どうしているかわかりません。

忘れられないとっても大事な想い出です。


2011.5.追加

23歳の時、初めて行ったヨーロッパは、その後、パリを後にしてドイツへと向かいました。

その車中で、車掌さんがやってきました。

なにかしゃべっています。

「しゃべっています。」という言い方は失礼ですね。

でも、そんな感じでだったんですよ!言葉のできない私にとっては・・・。

検札だったのです。私は期間限定で乗り放題のユーレスパスを持っていたのです。

その使用初日はいつかと聞いていたようです。

その呼びかけに、指を3本立てるだけの私でした。

今から考えてもみても、とてもいい加減な旅行でしたね。ある種危険な旅行でもありましたね。

でもその時は、そんなことを少しも考えていなかったですよ。なんせ、見るもの、聞くものすべてが楽しいばかりでしたから。

無茶なことだったかもしれません。

その後、ミューヘンでは風邪をひいてしまって2日間寝てしまい、ジュースと、鳥の丸焼きと、りんごで過ごしました。

スイス、チューリッヒでは、駅に降り立ったとき、どこからか聴こえてきたヨーデルの歌声。

馬に乗った目の青いマント姿の綺麗な娘さん。

言葉が通じないのに子供たちとサッカーをした想い出。

そのスイスからイタリアへ抜ける道中の、アルプス越えの神々しい山々。

ミラノの粋な姿のお姉さん。

フローレンスのミケッジャロン広場から見た夕焼け。

ドーモ越しに見える歴史を刻んだ街並。

ローマまで2ドルで乗っけてくれたアメリカ人青年。


もっと、もっと印象深い想い出があります。

切りがないのでこれで終わりにしますが、最後にスペインのトレドで模写をしていた青年を取り上げてます。

どういうわけか、模写をしている日本青年と私は仲良くなりました。

「私の家に来ませんか?とっておきのごちそうをしますよ!」

ということになったのです。

その青年の部屋は、土でできた洞窟みたいなところでした。6畳ぐらいの広さで、硬いベットがぽつんとあるだけでした。

もちろん、床は土間です。

そこで、なんとキヤンプ用のコンロでインスタントラーメンをつくってくれたのです。

その人にとっては、そりゃ、貴重な、貴重なごちそうだったに違いありません。

ところが大変です、その大事なごちそうが、もうすぐ食べられるって間際でゴロ〜ンとひっくり返ってしまったのです。

その青年と私は、顔面蒼白です。

とんでもないことが起きてしまったのです。

でもあきらめません。目と目を合わせた二人は、そのラーメンを一本ずつ拾い上げました。

そして、土間に吸われたスープはありません。それでも二人は水で洗ったのびたラーメンを笑顔で大事そうに食べました。

そこを去るとき、私はその硬いベットの枕元に500円硬貨をそっと忍ばせました。(その当時500円で一食付きで泊まれました。)

その人は、今どうしているかわかりません。

忘れられないとっても大事な想い出です。

スペイン土産 スペイン土産

ヨーロッパを旅してみて、今もですが、その国の歴史と文化を見るのがとっても好きです。

その地に息づいた人の足跡を見ることができるからです。

前回のスペインの記事で、大変なご馳走だった『インスタントラーメン』

トレドという古い都で模写をしていた青年。

自分の意志を持ち、貧しいながらも目が輝いていたその姿は今も忘れられません。

やはり一途な気持ちを持ち続けることが大切なんでしょうね〜。

私は稲盛和夫様の考え方が好きで、片時も離さず持っている本があります。

手の平に載る小さな本です。

それは『心を高める、経営を伸ばす』です。

その文中に、

『森羅万象』

って言葉があります。

稲盛和夫様は、「人は一つのことを貫き通せ」と言われます。また「浅く広くは知らないと同じことだ」とも言われています。

生きていく上で、その人の中心になるものは、原理原則の法則でしょうか?

『森羅万象』

一つを貫く

そんな言葉が気になるこの頃です。


2011.8.追加

前回までお伝えしたヨーロッパ独り旅は、もう38年前のことになります。

その旅から帰ってみると、今私が行っている『住み心地一番の家』づくりの、きっかけになる事件が起きていました。

『父の命、残り1ヶ月』

という現実でした。

腎不全による尿毒症で、このままでは1ヶ月が限度だと知らされました。

これは大変困りました。

助かる方法は人工透析しかないことを知らされました。しかし当時、地元の一番大きな兵庫県立柏原病院でも、まだ透析施設はありませんでした。

そして、その透析にはとんでもない治療費が要ることも知らされました。

途方に暮れていた時、ある先生を思い出しました。

その先生とは、私が20歳の時、県が初めて行った『兵庫県の青年の船』の副団長をされていた高山忠雄先生です。

私はそのヨーロッパ独り旅の帰り道、偶然に電車の中で高山忠雄先生にお出会いしたのです。白髪の、いかにも大学の教授という風情をお持ちの立派な先生でした。

汚れたリック姿の私は、話しかけるのを随分ためらいました。でも、勇気を出して先生に話しかけました。

先生は優しく私の話を聴いてくださいました。

その時、私はまだ父のことなど知りません。

ただ私は、高山先生に、こうして独り旅をするきっかけをつくってくれた『兵庫県青年の船』に対する感謝の気持ちを伝えたかったのです。

しかし、その感謝の本当の意味合いは、私の場合少し変わっていたかもしれません。

これはいけないことでしょうが、その『兵庫県青年の船』に、私は余りいい印象を持っていませんでした。

というのは、私が参加者の中で一番年下で、周りの皆さんは大学を出た立派な人ばかりでした。私のように呉服屋の丁稚をやっている人は、他に一人もいなかったと思います。

だからといって、私は卑下したわけではありません。何というのか、本音を出さない上辺だけのような付き合い方が私は好きではなかったのです。

だったら自分で、その想いを知らない世間にぶっつけてみよう。一つ肝試しをしてみようと考えたのです。それがこのヨーロッパ独り旅だったのです。

そのようなことを高山先生に告げると、「あなたは、おもしろい人ですね!何かあったら遠慮せず訪ねて来なさい」と笑顔で名刺をくださったのです。

大事に仕舞っていたその名刺が、なんと父を救うことになったのです。

高山先生の紹介で、父は人工透析を受けることができました。そしてその後、76歳までの18年間命をつなげたのです。

            『兵庫県の青年の船』          20歳の時

                『兵庫県の青年の船』                         20歳の時



2012.5.追加

どうしても納得できない自分は、独りヨーロッパへ

20歳で行かせてもらった兵庫県洋上大学は、私にとって大きな転機になりました。

申し訳ないのですが、その期間の”旅”がニセモノのような気がしたのです。

何かつくられた夢の時間のような気がしてならなかったのです。

はしゃいでいる人を見ながら、”何かで自分を試したい”そんな自分がいました。

それが『ヨーロッパ独り旅』でした。

パスポートと航空券。万が一の『7ヶ国語辞典』と『ユースホステル独り旅』だけでした。

ですから背負ったリックは、着替えだけの入った”ぺっちゃんこ”の姿でした。出て行く柏原駅で、そっと革手袋をくれた髪の長い年上の女性がいました。

私には似合わない革手袋を握りしめ、振り向きながら動き出した列車に私は乗り込みました。23歳の年末のことでした。

1ヶ月の独り旅でしたが、自分でもわかる”活き活きした自分”がいました。

旅の中で一番『生きがい』を感じたのは、降り立った駅前でした。

それはいつか見た絵本とそっくりの景色が目に飛び込んで来た瞬間でした。

「やった〜、やった〜」

と、心の中で弾んでいる自分がいました。何の怖さもありませんでした。

今それを思い出しても、”ふしぎ”だったな〜と思います。

けれどその後の人生で、何かにぶち当たっても「なんとかなる、できる」と思う自分になりました。


今日はここまでです

この続きは、次回に!



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